チューパパのニュージャージー冒険記

俺たちの冒険はこれからだ!

去年も一昨年も変わらず実家で紅白を見てるのですが、こうも境遇を異にしながら迎える年末というのも面白いものです。来年はまたどんなことになってることやら。

イチローが退団会見の時に話した、異国に来て人に優しくなったという言葉、渡米当時のころはうっすらとした共感でしたが、駆け足のアメリカ生活を終えた今、その言葉を噛みしめる毎日です。なんの努力でもない当たり前に持っているものでどれだけ恵まれた生活をしているかということ。なんの怠慢でもなく失ったものでどれだけ不便な生活をしなければならないかということ。自分に能力や余裕が無ければ人に迷惑をかけて不親切にしなければ目的を達成できないこと。親切にできるのなんていうのは不幸にもつまづいた人に自分の気まぐれで手を差し伸べられる時だけということ。それでも恥をかきながら3人の子供達に幸せになってもらいたいと願ってしまうということ。

この世界に異国なんてものはなく、異国は自分の心の中にしかありませんでした。そういう意味ではこれからの生活だって日本だとしても新天地は異国。と言う訳でこれにて一旦お終い。ご愛読ありがとうございました。チューパパ先生の次回作にご期待ください。俺達の冒険はこれからだ!!

実に4ヶ月ぶりですね。ラストダンジョンは昔ながらのセーブポイントが少ない感じでした。

備忘録をかねて面白くないことも細かく書いていきます。きっと長いと思うので用法・用量をよく守りお読み下さい。

時は遡り3月31日、アメリカでの感染症拡大を受けて既に始まっていた在宅勤務に加え、日本への一時帰国の「許可」が会社から出たことを受け、家族全員で日本に一時帰国しました。その時点ではどちらの国が安全という確証はなく、動いたことで失敗する可能性が十分にありましたが、終日子供たちの面倒を見ながら家事をこなすだけの技量が自分になく、また、その時点では日本は3月後半の学校への自粛がとけ、4月からは学校も再開予定であり、一方アメリカは6月が年度末ということで、年度内の授業は実施しないとニュージャージー州が早々に決断したこともあり、感染症のピークが見通せるまで日本でやりすごすという選択をしました。今となっては完全に甘い見通しですが、1ヶ月もすれば妻が先に帰って、2ヶ月もすれば子供たちと僕が戻って、遅くとも9月からはまた学校に通わせ始められると思っていました。帰国する飛行機は利用者も少なく快適でした。ただ防護服を着た乗客が乗り込んでくるとはたして自分はマスクだけで大丈夫なのかと不安にはなりましたが、添乗員さんが人が少ないのもあり普段よりこまめに要望を聞いてくれるのでいくらでも出てくるプレモルと一緒に不安を飲み込んでました。成田に着くと志村けんさんが死んでました。不安とビールが一気に戻ってきました。緊急事態宣言が出されたのは帰国して1週間後のことでした。

僕らが帰ったタイミングでは、アメリカはPCR検査の対象国になっておらず、2週間の隔離のみが必要でした。妻の家族が協力してくれ、お義母さんが車で迎えに来てくれ、子供たちがホテルでは大変だろうと、2週間を妻の実家で過ごしました。その間、お義母さん以外の家族はホテル暮らし、お義母さんも買い物は友人に協力してもらったりで最低限ですませ、仕事も調整して休みを取ってくれました。栃木の田舎なもので、公園にいっても人がいないので、他の人との接触をさけながら、子供たちと公園で遊ぶ日々でした。

隔離が終わって、僕の実家に移りました。もともと、今年は夏の間、日本の小学校へ長男を通わせようと思っていたこともあり、編入手続きをしたのですが、学校再開は延期が重なり、最終的に6月から再開となりました。僕の実家には近所に従兄弟が住んでおり、そこの子供たちがうちの子供たちと歳が近く、学校再開までの1ヵ月半はお互いの家に遊びに行ったり公園に行ったりして過ごし、学校から出させる宿題をやりながら、学校の再開を待ち望んでいました。

そして学校再開の数日前、すぐに終わると言ってなかなか終わらなかった会議の後、帰任になったと妻から伝えられました。

主な理由としては、妻がメインでやっていた仕事をアメリカでなく日本でやることになったため、帰任予定だった人の後任がやめてしまったため、とのことでした。感染症が拡大している状況、一時帰国している状況などがどれだけ影響したかは分かりませんが、めずらしく1年半での駐在終了となりました。

その後、アメリカの荷物の引き上げについての話になりました。子供たちは、日本の生活がつまらない訳ではないのですが、早くアメリカに帰りたいと日々言っており、家族揃ってアメリカに渡り、制限がある中でも会える形でお別れを言える人には言いたかったのですが、アメリカが日に日に状況が悪くなっているタイミングでもあったため、渡航せずにリモートで指示を出して荷物を引き上げるか、最小限の人数で渡航して引き上げることとなり、家族揃っての渡米は会社から許可がおりませんでした。

そして7月9日、僕が単身で渡米、初めての1人で乗る飛行機でした。新婚旅行でも今回の駐在でも、妻の三歩後ろをニコニコしていれば大丈夫だったのですが、今回は1人でニコニコしなければならず、上手く笑えたのか不安でしたが、入国審査もほとんど人がおらず、係の人も気持ちに余裕があるのか、僕のもともと無かったのに3ヶ月の日本生活で消し飛んだ英語力でも入国させてくれました。

アメリカで二週間の隔離生活中は、時差ボケをなおすべく、朝の涼しいうちに近くの公園を30分程走っていました。これが功を奏し、昼頃や夕方頃に眠くなり、子供もいないし人と会う予定も無いので気の向くままに昼寝するという生活で、なかなか寝る時間が定まらず長いこと時差ボケのままでした。食事は冷凍庫の中のものを片付けつつ、気を使って買出しにいってくれたり、食事を持ってきてくれる友人に恵まれ、外出できなくとも不自由なく生活でき、ゆっくりと、しんみりしながら、荷物を片付けることが出来ました。

ステーキ、キーマカレー、ビーフシチュー、ナポリタン、スモークサーモンのサンドイッチ、サムゲタン、牛筋の煮込み、ピクルス、シチュー。どれもこれもとても美味しかったです。ご馳走様でした。

隔離終了後、初日は車の査定のために車で1時間程北部の町へ行きました。ニューヨークの西側に位置するため、車で高速を走っていると、ニューヨークの摩天楼が海岸線から伸びていく景色を見ることができ、最後に最高のドライブが出来ました。昼は駐夫仲間の1人が時間を作ってくれ、ステーキを頂きました。屋外に張り出された大きなテントで、QRコードからメニューを選ぶ、ニュースタンダードのお店でした。他のテーブルで待ち合わせていたアメリカ人が、握手でなくぎこちなくも気持ちのこもったひじをぶつける仕草をしていたのが印象的でした。アメリカンな美味しいステーキを食べながら、今までのこと、これからのこと、数少ない共有できる友人と話すことができ、気持ちが前向きになりました。日本での再開を誓い別れ、夜はフットサル経由の友人が家に招待してくれ、家族ぐるみで遊んでいた仲間達と楽しい時間をすごしました。久しぶりに見る子供たちは3ヶ月といえど少し大人になっていて、楽しく遊んでいる様子を見ていると、うちの子供たちがそこにいないことがたまらなく切なかったです。

その翌日から2日間はムービングセールという、不用品を家で知り合いに売るということをやりました。友人が付きっ切りで手伝ってくれたのと、買いにきてくれた人も積極的に手伝ってくれ、随分と手際の悪い店員でしたがなんとか無事に終えることができました。年末年始の一時帰国で日本の食材を相当買い込んでいったのが無駄になるようで悔しかったのですが、皆が喜んで買ってくれたり引き取ってくれたりしたので報われました。

ムービングセールが終わった後は、同じ幼稚園に行っていた家族が送別バーベキューをやってくれました。アメリカの食材にはよく中心温度が○度以上にすること、とか書いてあるのですが、ちゃんと食材用の、針を刺すと中心温度が分かる温度計というのが売っています。いや、日本にもあるだろうけど。その温度計と、バーベキューコンロを持ち込んで焼いてくれた鶏肉とハンバーグは絶品で、丁度いい柔らかさで、翌日に食べても美味しいままでした。そんなご馳走やお酒と共にお別れの挨拶ができて、最後にはスイカ割りまで用意してくれて、子供たちが叩いた後、最後に割らせてもらいました。子供たちの目隠しには日本からアベノマスクを持っていきました。海を渡ったアベノマスクも珍しかろう…。

翌日から2日間は日通さんが来て搬出作業をしました。梱包まで全てやってくれるので、事前に船便、航空便、手荷物で分けておいたので、スムーズに作業はすすみました。スムーズすぎて、捨てるはずだったバスルームのゴミ箱が搬出されており、今頃我が家のお風呂場のゴミが太平洋を渡って日本を目指しているところです。

翌日から細かい残作業を。ダンボールや細かいゴミを出して、手荷物をホテルに運び、売り切れなかったものを友人に譲り、ルーターの返却、ETCのようなものの返却、オーナーへの手紙を転送、車の売却の手続き、などなど。妻が日本から出来る作業をほとんどしてくれたので助かりました。が、これを僕も渡米せずに全部リモートでやるとなったらとんでもなく大変だったろうなと思います。

一つ一つ片付けていって一つ一つ不便になっていく感じは、渡米した時の便利になっていく感じをまき戻しているようで、なんだか懐かしい感じがしました。

幼稚園に置いてあった子供の服を取りに行ったときに、先生達とお別れの話をしてきました。僕の英語の総決算だったと思います。最後の最後なんで言うんですけど、多少は英語が話せるようになったと思います。でも英語が話せるとか話せないとかじゃなくて、英語を話したいという気持ちの場面に出会えたことが何よりの財産だと思います。そこに妻がいたら流暢な英語で家族の気持ちを伝えてくれたと思うんですけど、多分、それに負けないくらい、感謝の気持ちをつたえられたと思います。

日通の作業が終わってからは細かい作業はありつつも、比較的時間があり、夜は友人の家でゆっくりできました。思い出話に花を咲かせ、最後の飲酒運転を満喫して帰る日々でした。

最終日はいよいよ車も回収され、足も無い状況なのですが、最後にゴルフを企画してくれ、アメリカ最後のゴルフを満喫してきました。クラブも船便で送ってしまったため、ゴルフ場のものを借りたのですが、自分が持っているものよりいい道具で、飛びすぎて勝手が掴めず悔いの残るスコアでした。またいつか、ということでしょう。何より、渡米前は、最終日に気の置けない仲間達とゴルフをするなんて想像もできなかったことで、そんな仲間に恵まれたという幸せをかみ締めたゴルフでした。そのままおうちにお邪魔して、ディナーになり、最後のブルームーンを飲み、ワインを飲み、そして最後はなんとマージャンでした。時差調整だと言って朝までつきあってくれ、明け方にホテルまで送ってくれました。それから仕上げのパッキングをし、仮眠をとり、無事にリムジンに乗って空港へ向かいました。

着任時と帰任時にはビジネスクラスに乗せてくれます。着任時に、長男が何の説明もしなくてもシートをリクライニングさせてアニメを楽しんでいたのを思い出しました。本当は家族4人で乗りたかったのですが、1人のビジネスクラスを満喫してきました。映画を3本、BAD EDUCATION、神様はバリにいる、黒い司法 0%からの奇跡。僕のチョイスが悪いだけだと思うのですが、本当に日本という国が不安になりました。

飛行機は無事に到着し、その後、検査となりました。僕の渡米直前に、PCR検査から抗原検査に変更されたため、例の鼻をぐりぐりするやつは回避でき、唾液を採取するのみで済みました。2時間も待たずに陰性が確認され、栃木のウィークリーマンションのようなホテルに移動し、日本での待機生活が始まりました。

マージャンでの時差調整がきき、やはりへんな時間に寝ることはありつつも、割と大きく時差ボケすることはありませんでした。朝と夕方の涼しい時にポケモンを探して散歩して買出しする日々。荷物の片付けも無いからと資格の勉強をするはずが終わってみれば積み上げたのはエガチャンネルの視聴数。資格よりも大事なことを得られたのでこれを糧に資格も得られるようにします。

多くの人が欲しいはずの一人時間を思いがけず1ヶ月も得て、子供の可愛さと育児の大変さを認識し、明日からの生活で確信するかと思います。一人だから聞きたい音楽を聞くんですが、白日とか夜に駆けるをリピートしてやばばな感じになったりしてます。そのあたりはまたエピローグとかで書ければ。

Twitterとかで、旦那が自宅で仕事をするのを初めて見て、普段見ない格好いい姿が見れた💕なんてノロケウイルスを見かけて、何言ってんだと他人事に考えてたのですが、見事に自分も罹患してしまいました。日本語とよく分からない言葉(多分英語)を巧みに操りながら司会をしつつ打ち合わせをしている姿を見ると、うちの大黒柱ステキ💕ってなりました。やはり、自分は関係ないと思わず、自分もいつそうなるか分からないという心構えが大事だなと思いました。僕はもう時既にお寿司ですが、皆様お気を付けてお過ごし下さい。

でも逆も然りで、自分もポケモンをやってる息子から「こおりタイプの弱点ってなに?」と聞かれて、「氷はどうしたら無くなる?」「ほのお!」「氷より固いものは?」「いわ!」「もっと固いものは?」「はがね!」という教育熱心な姿を見せつけてしまい、同じように惚れ直させてしまったと思います。感動のあまり言葉を失ってしまったようです。答え合わせは必要ないからその表情を見ることはしないであげました。妻のためでなく自分のために。

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